故 吉田喜代子様を偲んで 古都清乃の手記

天国へ召された吉田正先生とお母さんへ 〜 古都清乃 これからも歌で恩返しを 〜

桜満開、春の香りが漂うそんな季節のことでした。

「大人しそうな娘に見えたけど、古都さん、あなたは新人なのに、応接間のソファの真ん中にいきなりドカッと座り、まぁ、なんと!!この娘は・・・」

「普通は吉田正先生、よろしくお願いします。と三つ指ついてみんな丁重にご挨拶するものなのに・・・古都さんったら・・・」と、今だからと笑いながら話してくださるお母さんの口ぐせ・・・

「でも、古都さんは、顔は可愛らしいのに歌わせたらドスのきいた声、気に入ったわ・・・」

昭和40年4月、初めて吉田邸にご挨拶に行った時の出来事でした。
これが、お母さんの私への第一印象だったそうです。

まだそんな常識も知らなかった私のことを、今となっては微笑みながら語ってくださる器の大きいお母さんでしたが、歌以外に女性として、いいえ、人間として沢山のことを私は学ばさせていただきました。

あの当時、関西地方での人気番組「サンテ10人抜きのど自慢」の審査員として出演されていた吉田先生・・・番組収録の為に時々出張される時にお母さんから「古都さん、淋しいから泊まりにいらっしゃいよ」とよくお誘いいただいたものでした。相変わらずの図々しい私はお泊りセットを持って幾度と無く泊りに行ったものです。

今となってはそれが癖になり、いつの間にか「ただいま~」「おかえりなさい~」 と本当の親子のような言葉のキャッチボールのようでした。

私は4才で父を亡くし、11才で母を亡くし、残された5人兄妹の私達もそれぞれがバラバラに生きていきました。

私は叔母にその後育てていただいていましたが、デビューして2年目の頃、家が火事になり、私の大切なデビュー時の振袖衣裳も橋幸夫さんのお母様の呉服屋さんで作っていただいたお気に入りの和服もなにもかもが全て灰になってしまったのです。

憔悴し、行き場も無く困り果てた私に手を差し伸べてくださったのは、吉田正先生とお母さんでした。 「何も心配はいらないから、うちのワイフもかえって喜んでくれるから、家に来なさい」 と・・・・ その日から、2階の12畳もの広いお部屋を与えてくださいました。

私は感謝の気持ちで胸がいっぱいになり不安を吹き飛ばしてくださった吉田正先生のお言葉に甘えアパートが借りられるようになるまで吉田邸に3ヶ月間ほど身を寄せておりました。 そして、私の家が燃えたのを知ったファンの方々からは、成人式用の振袖など何点も送って頂きいつも皆様から支えて頂きました。

不謹慎かもしれませんが、吉田正先生のお宅に住まわせていただいたことは私にとって自慢でもあり、一生忘れ得ない宝物なのです。

それからです。 人の温もりに触れ何か、役にたつことが出来ないものかと私なりに考えたこと・・・・それは、トイレ掃除でした。

私を育ててくれた叔母が私に教えてくださった格言がありました。 「トイレは心の鏡なり」トイレをきちんと掃除する人は心も美しい人になれるものだと・・・ 私は、毎日毎日トイレだけはいつも掃除していました。
吉田先生の家に伺った時も、必ずトイレだけは私の役目の様におそうじを続けて来ました。

ある日遠藤実先生が吉田邸に訪ねて来られ、お帰りになられた後、お母さんにこう言われました。
「古都さん、遠藤先生がね、吉田邸のトイレはきれいですねとお褒めの言葉をいただいたのよ、古都さんが毎日掃除をしてくれていたのを私は知っていたわ、ありがとう・・・」

私は嬉しかった。 人の役に立つことが出来た・・・ それから私は、吉田邸へのご来客の際には前掛けをして美味しく煎れたお茶を差し出したり家事を手伝うようになりました。

いつものようにお茶を差し出すその時です。 吉田先生が「俺はこういう姿に弱いんだよね」 そしてお客様に対し「和歌山ブルースはね、絶対に古都清乃でなけりゃだめなんだ。他の歌い手では味が出ないんだ、その味でいいんだ」といきなりお仰った言葉を忘れることができません。

アパートを借りられるだけの十分な貯金もでき、吉田邸をあとにする時、「お世話になりました」と言葉を発するやいなや、お母さんは私を力強く抱きしめ泣きました。 私の、ここでの3ヶ月間は居心地も良かったし、何より母親の愛情に飢えていた私は「ありがとうございました」と言葉にならないほど泣きじゃくってたのをつい最近のことのように思い出します。

あれから・・・吉田正先生は私が訪ねていくと家族のように出迎えてくださいました。

「いつもありがとう、古都さんに曲をプレゼントしてあげよう」と書いてくださったのが、日本有線音楽大賞、有線音楽賞に輝いた「長良川夜曲」でした。

それから3年後に77才の若さで吉田正先生はご逝去されました・・・ その悲しみは言葉では言い表せないほどでした。

吉田邸でお世話になったもう一人の家族を記させていただきたいと思います。 お母さんのお母様「おばあちゃま」です。 2匹のわんちゃんとお忙しいご夫妻の留守番を任されていました。

おばあちゃまは寒い冬でもいつも素足で元気そのものでした。 おばあちゃまとの想い出に忘れられない味があります。 まだ若かった三田明さん、久保浩さんと私に即席ラーメンのチャルメラをよく作ってくださったものです。
それが、なんと美味しいこと・・・・ おばあちゃまの優しさがこめられた絶品のラーメンでした。
おばあちゃまもわんちゃんとお留守番している時訪ねてくれる門下生が可愛くて仕方がなかったのではないかと思います。

吉田正先生が亡くなられてお母さんに会いに行く機会が増えました。
「古都さん、お泊まりにいらっしゃいよ」 甘えんぼの私もお泊まりセットを準備して、のこのこ出掛けて行きました。

そのうち、私の部屋も出来、着替えや着物まで置かせていただくようになり、 私にはいつのまにか2つの家を行き来するようになったのです。

お母さんが元気なうちは、よく話もし笑いを絶やさないようにして参りましたが、お母さんががんを患い手術や治療をされて、憔悴しきっているお母さんを励まして、口に食事を運んでさしあげることも増えてきますと、 地方公演などの時、お母さんのことが気になり、東京に戻ってくるやいなや 真っ先にお母さんの所に駆けつけていました。

そんなお母さんがこの世で最期に発したお言葉は 「良かったね、お疲れ様・・・」でした。

古都清乃、初めての企画ライブショーにチャレンジし、成功の報告をしに行った時のお言葉でした。

私は、吉田先生とお母さんから十分な愛情を頂いたから・・・ これからも歌い続けていけると思いました。

今日も私の記憶に・・・・ 「ただいまー」「おかえりなさーい」と幾つもの何気ない日常の風景が思い起こされます。

どうかご成仏ください。 心よりご冥福をお祈り致します。

平成23年8月   古都清乃

お母さんの棺に最期のお別れ

2007年7月 那須の吉田別荘の前で

2010年夏 自宅にて

2011年1月 自宅の庭で自慢の紅梅を眺める

2011年2月 日比谷公園にて最後の散歩姿