上毛新聞 掲載コラム「視点」

第2回 クレヨンの思い出 図画の時間が一番嫌い

 4歳のころ、私は毎日小学校に通った。「節子、早く今のうちにあっちから行きな」と、母が私の気を引いている間に、姉は逃げるように学校へ行った。私について来られるのが嫌で、私の目を盗むようにして学校に行った。そのうち、私も「そろそろ姉が学校に行く時間だ」と思うと、先回りをして、いつも通る角で待ち伏せていた。そんな毎日に、姉は諦(あきら)めて私を学校に連れて行ってくれた。私は、姉と一時も離れたくなかった。

授業中は、教室の一番後ろでペたんと座り、一人で何やら遊んでいた。ところが10時ごろになるとおなかがすいて、姉が勉強しているそばで、お弁当を食べてしまう。おなかがいっぱいになり、ご機嫌な私は大きな声で歌い出す。「カラスの赤ちゃんなぜ泣くの、コケコッコのおばちゃんに、赤いお帽子ほしいよ…」と「一人でおしゃべりをレながら歌っている。そんなとき、いつも先生は「シーッ」と言って、みんなで静かに私の歌を聞いてくれたそうだ。後で姉が教えてくれた。 歌い疲れると、いつの間にかスヤスヤ寝てしまう。後に姉の同級生に会ったとき、「陽子ちゃんは、いい声だったものね-。やっばり歌手になったんだ」と言ってくれた。これも後で分かったことだが、姉のお弁当は当然ながらおかずはなくて、残っているのはご飯だけ。いつも友達からおかずをもらって食べていたそうだ。

私が姉と同じ小学校に入学したとき、姉は中学校に進んでいた。4歳で父を亡くしてからというもの、貧しい暮らしがずっと続いていた。3、4年生のころは、図画の時間が一番嫌いだった。クレヨンがなかったからだ。「また貸してくれる?」「うん」。その友達はおとなしくて、口数も少なかった。本当に貸してくれるつもりだったのかどうかはわからなかったけど、いつも貸してくれた。 それを見ていた別の友達が「年中借りちゃ悪いよ。お母さんに買ってもらえば」と言った。私はそう言われるのが一番悲しかった。買うお金がないのを知っていたから、母に一度も何かを買ってと、頼んだことはなかった。

あらゆる物に不自由していたころ、先生から24色入りのクレヨンと、たくさんの学用品を頂いた。その時のうれしさは、今でも鮮明に覚えている。それが福祉事務所からだったということを、ずっと後になって知った。

クレヨンを貸してくれた友達のことを忘れたことはない。数年前、同窓会でその友達に、卒業後初めて会うことができた。私は、心から感謝とお礼を言った。しかし彼女は、クレヨンのことをまったく覚えていなかった。私は感謝の気持ちが倍増した。そして素晴らしいことを彼女に教えられた。「お世話になったことは、絶対に忘れてはいけない。お世話をしたことは、絶対に恩を着せてはいけない」ということを。

古都 清乃

Index

掲載コラム目次