上毛新聞 掲載コラム「視点」

第3回 だんごと針仕事 忘れられない母親の姿

 その日も母は朝早く起きて、おだんご作りに忙しそうだった。昼間はおだんごを売り歩き、夜は遅くまで着物の仕立て仕事をして、私たち子どものために身を削っていた。母の作ったおだんごは、「だんご三兄弟」なんて問題じゃない。やわらかさといい、たれのあの甘からさといい、今まであの昧に再会したことがない。

米をひいた粉を蒸して、丹念にこねる。次に台の上で直径2cmほどの丸い棒状に何本も伸ばす。その端を左手に持って、長さ20cmくらいの糸の先を口にくわえ、もう一方の糸の先を右手に持って、棒状のおだんごに巻きつけながらリズムよく切るのである。それを一本の串に四つずつ刺し、炭火で軽く焼いたあと、たれをつける。 母はそれを持って、自転車でどこかへ売りに行った。どこまで行ったか知らなかったけれど、いつも妹と障子のガラス越しに外を見て、母の帰りをじっと待っていた。 ガラス越しといっても、1km以上先の線路の向こうまで見わたせるのである。お腹をすかし、火の気のない寒い部屋で、ただひたすらガラス越しに母の姿を探していた。 日の暮れかかったころ、遠くの方に母の姿を見つけた。頭にはネッカチーフをかぶり、向かい風に必死にペダルをこいでいる。そんなとき、母は何を思っていたのだろうか。おだんごが全部売れたところで、大したお金になるはずがなかった。これで私たちに何かおいしい物でも食べさせてやりたい。たまには新しい洋服の一つも着せてやりたい、きっとそう思っていたに違いない。

でも、いくら働いても働いても、新しい洋服どころか、食ペるのが精いっぱいだった。夜は毎晩遅くまで針仕事。私が夜中に目を覚ますと、いつも針が動いていた。だから母の姿を思い出すとき、針仕事をしている姿か、片方の端を口にくわえた糸でリズムよくおだんごを切っている姿しか思い出せない。 いま母が生きていたら、苦労した分だけ親孝行してあげられるのに・・・。私が小学五年の春休み、幼い私たちを残したまま逝ってしまった。母はどんなにか心残りだったろう。

小学生時代、たまに仲の良い友達が家に遊びに来ることがあった。時々私は家の屋根の上に友達を招待した。そこにはおいしい高級なおやつがいっぱいだった。私の家の隣が和菓子屋さんで、パンと和菓子を製造していた。表面をギザギザに切ったようかんをたくさん箱に並ペて、私の家の屋根の上で何日か干すのである。 何箱もいっばいあるのだから、一つや二つ食ペたって分かりはしない。友達に「ねえおいしいよ、食べてみない?」。友達は、初めはびっくりしながら、いつの間にか口に運んでいた。「おいしい・・・」。友達は私の顔を見て、肩をすぼめた。私はだれでも屋根の上に招待するわけじゃない。「上」の友達だけ屋根の上で、子供なりに招待していたのである。 少しもバレていないと思っていたら、お菓子屋さんのおじさんは、みんな知っていた。あの優しいおじさんの顔が、今でも忘れられない。

古都 清乃

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