上毛新聞 掲載コラム「視点」

第5回 吉田正先生 メロディーが交響楽に

 「音楽の父」と言われた吉田正先生が、惜しまれながら80年の生涯を閉じて、早いもので3年になる。先生が逝ってしまった時は悲しかった。父を亡くした時のように悲しかった。
吉田門下生といえば、大先輩には、フランク永井、松尾和子、鶴田浩二、三浦洸一、橋幸夫、三田明の各氏、そして私。先生は門下生を皆一流に育て上げたのに、私一人が出来の悪い門下生で、いつも心で先生にわびている。先生はこんな私でも、いつもみんなと同様にかわいがってくださった。

デビューして2年くらいたったころだった。私は火事に遭い、なにもかも焼き尽くしてしまった。そんな時、先生は真っ先に連絡くださって、「何の心配もいらないから、今日から家にきなさい」と言ってくれた。どこへ行くあてもない私には、その言葉は本当にうれしかった。 私はその日からお世話になった。先生のお宅には、奥様とおばあちゃま、犬の花子ちゃんとクロべえがいて、そこへ私が加わった。時々お腹がすくと、おばあちゃまがラーメンを作ってくださった。とってもおいしくて、今でもあの味が忘れられない。ほんの何週間かお世話になるつもりだったが、あまりの居心地の良さに、2ヶ月くらい居ついてしまった。その間、「行ってまいります」「ただいま」のあいさつがくせになり、今でも先生のお宅へうかがう時「ただいま」と自然に出てしまう。

昭和40年、吉田門下生の一員として『初恋笠』で、橋幸夫さんの大阪新歌舞伎座1ヶ月公演によりデビューした。40年代の吉田メロディーは、出る歌がみんなヒットし、大衆の心をつかんで離さなかった。 先生は戦争中シベリアに抑留されて、来る日も来る日も死ぬか生きるかの激戦の中、「ここで死んでなるものか。祖国の土を踏むまでは」と自らを励まし続けた。絶望的な日々の中、先生は時折作曲をしていた。そんな時が何よりの憩いのひとときだったに違いない。その中の一曲が『異国の丘』である。あの曲を聞くと、戦争を知っている人ならだれもが心をふるわせられる。戦争を知らない私でさえ、熱く込み上げてくるものがある。

昨年の秋、世界で初めて日本の歌、吉田メロディーが交響曲風にアレンジされ、トルコ交響楽団によって東京をはじめ、十三カ所で演奏された。そのほか、世界数カ国でも演奏しているのである。それが東京シンフォニー。私は二カ所でその演奏を聞き、吉田メロディーのすばらしさを再認識させられた。 だれもがあこがれる都会的ムードのロマンチックなメロディー、自然に心が弾んでくるあのリズムと、心洗われるような清楚でどこかもの悲しい旋律、すべてを兼ね備えているのが吉田メロディーである。聞いているだれもが楽しくなり、純粋になって、いつしか切なくて悲しくなる。 演奏のクライマックスは、やはり『異国の丘』である。そのメロディーが百人からの演奏者の手によって流れ始めると、いつしか会場のあちらこちらからすすり泣きが聞こえてきた。驚いたことに、言葉の分からないトルコ人の奏者までもが泣いている。音楽に国境はないというのは、このことなのだ。楽しいメロディーはだれをも楽しませ、悲しいメロディーは感動させてしまう。指揮者も泣いている。言葉もせりふもない旋律だけで、観客の心をこれほどまでとらえるというのは、吉田メロディーならではと思う。 来年の秋、再度トルコ交響楽団が来日する。一人でも多くの方に聞いてもらい、あの感動を味わってほしい。東京シンフォニーライブCDビクターより発売中。また、私の新曲『大阪ふらふらり』『新潟ブルース』も発売中です。

古都 清乃

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